柿踏み日誌

フミフミ

28年目の阪神・淡路

昨日1月17日は阪神淡路大震災が起こった日でした。

当時、私は大阪にいたので大きな被災はしませんでしたが、初めて経験する大きさの揺れに驚いて怖かったことはいまでも憶えています。

 

とはいえ、28年も経つと細かい事実などは少しずつ剥がれ落ちてきて、気づかない内に忘れてしまっていることも多いと思います。

 

ただ断片的な感覚や人とのやりとりなどは、焼き付けられた写真のように今もリアルに思い出すことがあります。

揺れる直前に聞いた不気味な地鳴りとか、停電で真っ暗だった街の風景だとか、ラジオから「阪神高速が落ちている」とが聞いて何かの間違いじゃない?と思ったこととか。

その日の午前中に停電が復旧してテレビを見たら、本当に阪神高速神戸線が延々と倒壊してて、神戸の街のあちこちが壊れていました。

 

神戸には祖父母の家があったので、毎年お正月には親戚が集まっていました。

あの年もみんなで集まって料理上手の叔母さんが作ったおせち料理やお雑煮を食べて、じいちゃんばあちゃんに元気な顔を見せるだけという、年に一度のじじばば孝行をしました。

祖母は料理をしませんでしたが器とかにこだわりがある人で、孫たちのためにお正月らしい茶碗や小皿を並べてくれました。

うちにある実用重視の食器とは違ってステキだな、と思ってました。

 

あの日、震源地が神戸だとわかってから、祖父母の家に何度も電話しても繋がりませんでした。

繋がりはしなかったものの、多分大丈夫だろうという妙な余裕が心のどこかにありました。

テレビで流れてるヘリから撮った神戸の映像は、三ノ宮など神戸の中心部が多くて、祖父母の家辺りの状況はまったくわからなかったからです。

楽観的な私は、停電や電話の不通があってもあそこまでの被害は受けてないだろうと思っていました。

 

結局、連絡がついたのはその日の夜でした。

祖父母宅は全壊ながらも家族は全員、無事救出されました。

後であった時に聞いたら、祖母は「目が覚めたら目の前に天井があった」と言ってました。

 

半月ほど前にみんなで集まったあの家が一瞬で無くなって、あのかわいいお茶碗やお皿も割れちゃったんだな。

今思えば、茶碗や皿どころではないのだけど、その頃はそんな風に思ったことを憶えています。

 

親戚以外の知り合いにも被災者は何人かいました。

直接の知り合いで亡くなったり大きな怪我をしたりした人はいませんでしたが、生まれたばかりのお子さんを亡くした方が一人いました。

人づてでその時の様子を詳しく聞いて、他人ではあるけれど本当に辛かったです。

 

その人とはもう会わなくなりましたが、今でも震災の日がくるたびに思い出して胸が痛みます。

そのお子さんが無事だったらもう28歳になってたんだな、と。

 

阪神・淡路大震災から28年経って、報道等もかなり少なくなってきました。

関西ではまだいろんなメディアで、当日だけでなくしばらくの間は追悼や防災関連の話題が出ています。

 

しかし全国的にみると、阪神・淡路大震災のことはあまり注目されなくなってきたと感じることがよくあります。

 

それは残念なことだと思うけど、仕方がないことでもあるのかなと思っています。

 

私だって関東大震災が起こった日に、そこまで気持ちはありません。

9月1日は防災の日でその日に関東大震災があったという事実を知ってるだけ、という感じです。

 

でも、地震についての知識や防災への意識は決して忘れてはいけないと思います。

 

いつ、どこで起こるかわからない地震だけど、ただ闇雲に恐るだけなく、できる範囲で物質面でも精神面でも備えておきたいです。

 

少しでも被害が軽く済むように考えて行動する。

1月17日が、その他の地震災害の日が、そのきっかけになればいいなと思います。

 

私にとって「忘れない」というのはそういうことだと考えています。